非日常と日常の危険性
非日常には危険が潜んでいそうである。
では、日常はどうであろうか?
私は日常でも危険が潜んでいると考える。
日常が危険というとなんともハードボイルドな感じである。
ここでは、いかにハードボイルドな日常を過ごすことが大切であるかととく場所ではない。
ここで言いたいことは「日常だけでも危険」で、「非日常だけでも危険である」という事を述べたい。
日常と非日常の関係性もう少し詳しく述べると
非日常と言うのは日常がベースにあるのである。
つまり、日常なきところに非日常はないと言える。
日常を整えることで、非日常が、光始めるのである。
それは光と闇の関係性とよく似ている。
良く光と闇は対立関係のように描かれる事があるが、それは片手落ちである。
闇の上の光があり、光を描くには闇を描かないといけないと言う関係性にある。
つまり光は闇は一体出ると言う事がわかる。
この理論から日常と非日常の関係性は一対であり、日常があるからこそ非日常があり、非日常があるからこそ日常がある。
ではこの関係性のどこに危険性があるのか?
それは、
非日常を定期的に入れないと日常がなくなると言う事である。
これは時間と空間の関係性に似ている。
時間は空間があり空間を移動または状態が変化する事で認識できる現象である。
もしも、全く変化がない場合時間を計測する事が出来ない。
そしてこれは日常と非日常の関係性の危険性に帰結する。
日常に非日常を取り込まないと、時間概念が消えてしまうのだ。
これはおよげ!たいやきくんで実証されている。
毎日毎日僕は鉄板の上で焼かれて〜と続く
時間感覚のなくなったたい焼きは、非日常を求めて海へ飛びこむと言う発想に至る。
そして行動する。もはやこれは自殺行為である。
これは、比喩表現であることは明らかで
毎日同じルーティンワークをこなしている人が、ある時、何か線が切れたようになると言う現象を示唆しているのではなかろうか。
つまり危険性とはこの事である。
もしかしたら、このたい焼きである主人公に、定期的に非日常イベントがあれば良かったのではないだろうか?
我々はこのたい焼きを助ける事ができたのではないだろうか?
システム提供、アーキテクト側としては、この日常、非日常イベントを意図的に用意する必要がある
と言える。
その事で、時間を感じる事ができ、楽しみとなり、時間が伸縮する結果となる。
それは空間にも言えるのではないだろうか?
間と言ったり、クリアランスと言ったり、遊びと言ったりする。
そしてそれぞれに最適のクリアランスが存在する。
すなわち、日常と非日常は、伸縮をさせた認識なのかもしれない。
と言うことは
時間も、空間の伸縮が産み出したものかもしれない。
伸縮ということは、リズムであり、波である。
これも、かの輪ゴムのようなやつの仕業であろうか。
実に危険である。