自由の危険性

自由の危険性

自由ってみんな、良いものとか思っていないだろうか。

「いやいや自由はどう考えても、良い物でしょう」

なんて輩がいたら、それは自由のなんたかをあまりご存知無い。

自由というのは、

制限があって、存在する概念なのだ。

つまり、

制限なき事が自由だと思っているが、

制限ありきで、その制限をなくしたい心こそが、自由を求める心なのだ。

時間と空間が互いに相互作用を受けているように、

光と闇がそうであるように、

自由と制限は、一対になっている。

自由を権利だと言う人がいるが、

実は自由は権利では無い。

制限ない場合、自由もない、

制限を設けた瞬間から、自由は存在する。

概念の一種なのだ。

では、制限はどこからくるのだろうか?

実は制限は、

他人からかけられる制限と

自分でかける制限がある。

他人からかけられる制限は、ルール、法律とか言う。

自分でかける制限は、「思い込み」であったり、

その字の如く「自制」であったりする。

ルールには、

みんなで作った物と、権力者が作ったものがある。

おおよそ、「自由」とは、「この権力者の作った制限に対する反発」だけをさしたりする。

この自由だけを見ると、虐げられている雰囲気があるので自由はいいものと思いがちであるが、

みんなで決めたルール、制限を破るやつはどうであろうか。

これも自由だといってしまうと、

これは「無法地帯」となりのだ。

危険である。

では、

精神的な部分はどうであろうか。

「思い込み」で制限をかけている場合、

他からの「何か」の働きかけがない限り、「思い込み」は続く。

ただ、

この制限は自分がかけていても、制限かかっているとは

全く感じない。

他人が「あの人は自由が無い」と勝手に思うだけなのだ。

自分では制限がかかっている事に気づかない。

つまり制限がないということは、自由も存在しないのだ。

では最後に、

自分で制限かけていることがわかった場合は、どうであろうか?

この場合自由を望むケースが多い。

「自由になりたい。」

と渇望するのだ。

ただ、この場合、おおよそ、

「自分で制限をかけていながら、」

「他人のせいにする」と言う状態を自分で作り上げている。

旦那が、社会が、世間が、嫁が、制限をかけていると思い込んでいる。

実際にはそんな制限はかかっていない。

そしてその事には気がつかない。

この状態が、厄介なのである。

「制限なんかないよ」といっても

「あなただから」と言う返事しかできない。

これは、よく、自己啓発の授業で、

ノミの話に例えられる。

元気なノミ達が おりましたとさ、ピョンピョン跳ねていましたとさ。

しかし、そのノミ達は、ガラス瓶に入れられ、蓋をされましたとさ。

時間が経って、蓋を外したけど、ノミ達は、ガラスの蓋までしか飛ぶ事をしませんでした。

これには続きがあって、

ガラス瓶の外のノミを連れて来ました。

ノミは蓋なんてこと知らないのせガラス蓋のあった場所より平気で飛びます。

「あれ、なんでみんな飛ばないの?」と言わんばかりに。

蓋を経験したノミは徐々に飛ぶようになりましたとさ。

と言うお話です。

まとめると、

自由と言うのは、制限という概念がないと存在しないという事。
そして、制限は自分で作り上げてしまっているという事。

つまり、「自由でない」は自分で作り上げてしまっているという事。

ならば、

それは制限ではなかったとまずは認識する事から始めればいいんだ。

「認識改善」

自由を求めている自分に気づけば、それは本当は自分で勝手に作っていた制限かもしれない。

自由とは危険である。

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